ブログ

【サッカー選手×教員】御厨の3000字インタビュー (上)

職業高校教員(藤枝明誠高校)阿部謙作さん

阿部さんは2003年ヴァンフォーレ甲府に入団。GKとしてプロ通算180試合出場した元プロサッカー選手だ。阿部さんは私が、2007年に甲府に入団した時の不動のレギュラーGKで、憧れの選手の一人だった。彼のプレースタイルは一言でいうと「賢い」。球際に強く、プレーやポジションひとつひとつに自らの信念と理論を持ち、表現していたように思う。

今回私が、阿部さんを訪問した目的は教員のシステムについて学ぶことであった。学校指導もさることながら、高校サッカーの指導者についても興味は尽きない。引退後のキャリアとして教員を選ぶ選手は少なくない。私自身も中・高保健体育(1種)免許状を取得しているが、学校現場に関する情報があまりにも少なすぎるために、選手に提供できる情報があまりにも希薄だ。私は職業情報や会社のシステムを知ったうえで選択するのと、それしか無いと思い選ぶのでは全くもって意味が違ってくると思っている。現役中に高校へインターンに行くなど、当時からキャリアへの感度が高く、自身のキャリアに向き合っていた阿部さんに会いに行った。

阿部さんは1980年生まれ、神奈川県出身で10歳からサッカーを始めた。GKを始めたきっかけは、キャプテン翼の若林源三。「一歩引いて全体を見ている感じに憧れた」という。そして幼稚園年中までを神奈川県で過ごし、その後静岡へ。中学から東海第一中学を受験し、高校も同じく東海第一高校に進学した。その後、筑波大学を卒業した後、ヴァンフォーレ甲府でプロ生活を始めた。現在は藤枝明誠高校で教員としてサッカー部の指導もしている。

ーなぜ、教員だったのか

阿部さんは、サッカーの少し上手いどこにでもいる中学生だった。中学時代のある出来事が彼の人生を変えることになる。それは、当時の監督から「メンバー交代やハーフタイムの指示をやれ」と言われたことだ。彼は自分には指導することが向いているのではないかと思った。この瞬間、指導者を意識した。高校入学時には「教員になるために筑波大学に行きたい」と明確に言っていたそうだ。

彼は大学卒業後、プロサッカー選手の道を選んだ。「プロでやれる可能性があったし、そこを経験した方が教師に活きる」という理由だ。選手時代は必死だったが毎日が楽しくて、楽しくて仕方がなかった。練習が終わった瞬間に、早く次の日の練習をやりたいと思っていた程だ。その一方で早く指導者になりたかったそうだ。当時の監督・コーチが輝いていたのだという。選手と指導者を隣り合わせにし、一歩引いた目で見ている感じはまるで若林くんのようだ。

彼は「サッカー選手は教員に向いている。なぜならば、教員に求められる能力の1つにコミュニケーション力がある。例えば、ディスカッションでどちらが正しいではなく、お互いに意見を出し、客観視し、相手の意見を尊重して話すことだ。サッカーの世界(特にピッチ上)では話を聞いてもらえないことは多々ある。自分の指示を聞いてもらうためには、どう伝えるかを考える。だから、サッカー選手は教員に向いていると思う」。と言っていた。私は教壇で生徒に向う時でも本質は同じことなのだろうと感じた。サッカー選手として培ってきたコミュニケーションの経験が、今生徒とコミュニケーションをとるうえで、大きな力になっているのだろう。

とはいえ、教員としての最初の壁は早かった。伝えたいことを言葉にするのは難しく、入学式の時、担当クラスの所信表明で「学校生活の中で勉強ばかりではなく、もっと大切なことをし、人間として成長してください」と伝えた。しかし、保護者からは「それでは子供が勉強しません」と一蹴されたそうだ。自分の感覚を言語化し、どう噛み砕いて伝えるか。擬音が良い人もいれば、文脈が良い人もいる。教育現場に必要な伝える力が必要だった。今では各人や各グループに合わせた、物言いを生徒に教えて頂いているのだという。「観念を概念に!」クラスの共通言語となるものを今では意識しているそうだ。その原点は甲府でのサッカーにあった。かつて、当時の監督が「クローズ・オープン」というビジョンを示した。それにより進むべき方向、イメージがチーム内で共有されていた。当時の経験を、彼は教壇に持ち込んだのだ。私はサッカーで培った能力を活かすとは、こういうことなのだと彼の話を聞いて思った。

(下に続く)

PAGE TOP